昭和五十二年九月十日 朝の御理解

 御理解第十四節 「神は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさる。」


 荒れ地荒れ屋敷からは決して良いものは生まれません。良いものが生まれないことを神様は喜びなさらないということだろうと思います。お互いの家の中が、キチッと荒れ屋敷になっていないか。まあ荒れ屋敷同然になってはいないか。また、自分の家の周りの、いうならば庭やら畑やらが荒れ地同様になっておりはしないか。そういうことも確かに、神様はお嫌いなさると思うのですけれども、結局、人間の住む家、いうなら家庭が荒れておる、または、人間の心そのものが荒れておる、ということだと私は思うです。
 私は、もう例えば十四節というのは、読んだらそれだけのことですからね。ほーう神様ちゃ、荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさるばいなと、これは、その荒れ地荒れ屋敷にしてはならないなということ、それだけですから。もう御理解は、これでお仕舞いということになるのですけれどもね。それでは、私の勤めが勤まらんような気がしましたから、「神様、どういうことを、今日は皆様に伝えたらよいだろうか」とお願いさせて頂いたらね、月偏に干すと<いう字>、「肝」という字になりますね。月を書いて、干という字を書いてごらんなさい。月ということは、天地の親神様が太陽なら、いうならば、お月様を人間に例えていつも御理解下さいます。
 「生神金光大神、天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にあり」というその和賀心というのは、丁度、月が満月のようになっておる状態をいうのです。皆さんも十分御承知のとおりです。お月様自体には光はありませんね。けれども、太陽の光を反射して、それをまともに受けた時に、満月の十五夜さんのお月さんのように、それこそ昼を欺くような光が晧晧と光り輝くのですね。ですから、私どもが、どうでも光を頂きたい。ならば、いよいよ十五夜のお月様のようにまではいかんでも、せめて半月さんぐらいには一つならせてもらわにゃいかんのですけれども、お互いの心がいつも暮れの闇というようなことでは、おかげにならんことが分かりますね。心に光を受ける場がない。おかげの受ける場がない。月が干上がっておる。お互いの心が干上がっておる。瑞々しいものがない。もう、それこそ乾燥仕切っておる。なるほど、これではどんなに良い種を蒔いても芽も切らないでしょう。そういうことが、私は荒れ地荒れ屋敷に当たるのではないかと、今日また改めて思わせて頂いたんですね。私どもの心の中に喜びが頂けれる。
 昨日、研修の時に、丁度研修の前に、私が、今いつもここに一時に出て来ますけども、一時前だったから、西岡先生に電話がかかってきた。宮崎の細田さんという方です。私よりも西岡先生のほうが詳しいんですけれども、あちらに行かれて、いろいろとまあ、「御結界では、もうこんなことはお届けも出来ませんし、お話も出来ません」と言うて、いろいろお話になるそうですが、まだ参られたのは三回でしょうか。まあ大変な大きな事業をしておられて、いわば東京から出て来られて、まあ奥さんの郷里が宮崎であるというので宮崎に見えて、そして馴れない仕事を始められて、もう赤字から赤字。もう赤字だけで三千万の赤字、だから、もう止めるより外にないから、もう、さあ止めよう。いつ止めようかと言うておるところに、お導きを頂いてお参りをしてきとる。とても金光様に参ったからというて、こういうことがおかげになるとかならん、そんなことは。だけど、あんまり勧められるから、そのままお参りした。もう、それこそ余り遠いので、もう途中でへこたれるごとあった。けれども、一度ここへお広前にお引き寄せを頂いて、お取次を頂いて、まあ先生と初めてお会いして、それから御理解を頂いていくうちに、「こりゃ、ひょっとしたら助かるかもしれんぞ、いや、これからの助かりの場は、もうここより以外にはないぞ」と帰られる頃までには心が変わったわけです。
 で、その丁度、昨日も西岡先生に電話がかかってきて、丁度、<網さん>のところに行っておられた。そこへ、御主人から何千ですかね。全然売れない品物が、何千と言う大量の注文があったと言うて、奥さんが<網さん>ところへ行っておられるから、御主人が嬉しさの余りに電話をかけてきて、<網さん>とその奥さんとが代わり代わりに、もう泣きながらお礼のお届けがあった。「どうぞ宜しうお礼を申し上げて下さい」と言うた。なら、お参りは三回、もう帰る道々に、いわばおかげを頂いて、それが、ちっとそっとのおかげじゃないわけですたいね。もうとにかく売れ行きの上において、金銭のお繰り合わせの上に、もう金銭のお繰り合わせなんかはもう、それこそあっちこっちから送ってくるんです。新たな思いもしなかったところから。それでいて今までただ作るばっかりで、どうにも出来なかった、いわゆる馬牛の飼料ですね。それを化学的に作るというのですから、もうそれも、いうならば素人の侍の商法のようなものでして、もういよいよいけなかったのが、もうそれがどんどん売れていくわけです。
 昨日も、そんなに大量の注文があった。もうとにかくあちらへ、それがどういうわけ、宮崎地方、<網さん>のところやら、または細田さんのところやらに。たった三回しかお参りせんとに。神様が依怙贔屓してから下さるだろうかと、まあ思うようにあります。で、そのことが話題になりまして、「あんた方どげん思うか」と、「どうして、ああいうおかげになるか」ということは、どこにその秘密があるのかと言うて、究明していったわけですけどね。結局、もうここを変える時点から人間が二人見るように変わったということなんです。二人ながらね。
 御主人が西岡先生に話されたそうです。も、私の方の家内はとってもなかなか教養もあるし、二人とも大学を出とられるそうですが、そして、お家は大変なお家らしいです。例えば、福岡にお父さんが大変世話をしておられたという方が福岡におられて、その息子さん達が宮崎に見えとるということを聞いて、丁度ここでお取次を頂いた明くる日、電話がかかってきた。そして、「大変なことでしょう、馴れないお商売をしてなさるから。もし、お金どんが要る時は、どうぞ言うて下さい。」といったようなその働きが起こってきとるわけです。
 ですから、そのやはり侍の商法のようなことですけれども、おかげを頂き、お繰り合わせを頂くということがです、「もう私どもの家内は、よそへ行ったら、もういろんな教養も身に付けとるし、もうほめられる、素晴らしいていう、外では。けれども家へ帰ったら、<いつもブーッと腹けたことしてから>最近なんかお金が足らんもんじゃけん、とりわけ、もう寄り付かれんぐらいにしとります。それが、もうここを帰る道々からですね。もうどうしてこげん変わられるかというごとしとります。もう私としては、こげん有り難いことはない」と言うのが、奥さんもやっぱり同じような事を言われるそうです。いうならば、心が満月のようになったということじゃないでしょうかね。 そこに、もういうならば、お取次の働きによって天地の親神様の光が全面的に、いうならば光が輝くようになったんじゃないですか。だから信心は、まあだ本当のことは分かっておられません。三回位参った位のことですから。だから、これが何時までもそんな円満な十五夜のお月様のような心の状態で居れるか居れないかは疑問だけれども、結局お互い信心をさせて頂いてです。暮れの闇から三日月さん、三日月さんからいうならば十五夜さんというようにです。私どもの心がいよいよ円満に、いよいよ光り輝くような曇気一点ないようなおかげを頂かせてもろうて、初めて昼を欺くような、いうならばどういうことでしょうか。それこそ人間の顔様はしておられるけれども、あの人こそ正しく生神様だというようなね、神様を欺くような光をも放つことが出来る。教祖は、そういうところをギリギリ教えておられるわけです。
 「おかげは和賀心にあり」、和らぎ賀ぶ心というものは、だから、それは丁度満月のお月様のような状態を言うのだということです。だから、今までの生き方がです、それこそどうにも出来ないとか、行き詰まったという、それも前に前進したところで、おかげになるはずはありません。もうそんなら行き詰まったというならば、もうそこから回れ右をするより外にありません。生き方を全然変えてしまわなければいけません。そこに白が赤になるほどしの心の状態が、いわば頂けて来るのです。いつも心はゆらゆらしておる。いつも心が暗い。いわば不安でたまらない。信心をさせて頂いとっても、やはり不安であり、イライラであり、という時には、もう心が曇っておる時ですから、そこで、ならお互い信心の稽古によって心をいよいよ明るくさせて頂こうというおかげを頂かなければなりません。
 自分の心が朗らかで、ということは明るいということです。そして心が有り難い。そういう心の状態を頂きたいのですけれども、大体分けて二つの形があると思うんです。例えば、自分の思うようになった。まあ信心でいうなら自分の思うようなおかげを頂いた。いや思い以上のおかげを頂いた。いや、これは信心がなかっても、仕事が都合よう今日は行った。思いがけないところからお金が入った。もうそれこそ口笛でも吹きたいごたる、心が朗らかになりますね。心がもう嬉しくてたまらん。そういう意味で心が晴々としたり、嬉しかったりというようなのが一つ。これは、けれども、どこまでも自分本位、自己本位の考え方から起きてくるものです。いうならば人間の本能的なものというても良いでしょうね。信心があってもなかっても自分の都合の良いように事が運んだり、思いがけないところから金が送ってきたり、自分の好きな物を貰うたり、というような時には、もうやはりニコニコしよるごたる。心朗らかで明るい。けれども、これは束の間のものだということです。その束の間の喜びをお互い求めておるようなことはないだろうかということですね。
 もう一つは、どういうことかというと、信心を頂く、真の信心を頂くということですね。そして、これは助かられるぞ。ここから自分のいうなら開運、運が開けてくるぞと、というような確信に満ちたようなものを頂いた時に、それこそ細田さんじゃないですけれども、「これは、俺達が助かるのは、もうここ以外にはないぞ」と心の中に感じられたようにね。そこから生まれてくるところの明るさ、そこから生まれたところの喜びであり、有り難さというものは、これは尽きぬこと。永遠にそれを頂き続けていくことが出来るというのです。ですから、嬉しいとか有り難いとかという、または明るいということが、そういう二つの人間のこれは本能と思われるね。自我意識というか、自己満足というか、そういうものが満たされた時に、自分の我が通った時に、自分の心が何かによって満たされた時に朗らかになったり明るくなったりというのは、これは束の間のものですけれども、その束の間の喜びを求めるというような、いうなら、もっと極端にいうと刹那主義とでも申しましょうか。それを追い求めて人間の幸せはあるだろうか。少しは手がいる。いうなら骨が折れるけれども、人間の本当の生き方、この生き方で行けばもう必ずおかげが頂かれる、お徳も頂かれるという確信に満ちた私は生き方。それをいうなら、今までの宗教のすべてがです、それに明確な答えを出さなかったということです。沢山の教えは沢山もう、それこそもう難しいぐらい沢山あるね。例えばキリスト教のバイブルにしろ、仏教の経典にして、それこそぼつ大なものである。それは、いうならば人間が幸せになっていくことが、いっぱいいうならば書いてあるというようなことだけれども、それでいて、なら明解な答えは出していない。この道さえ行けば絶対だというようなものがない。【  】言うたところでです。とてもその絶対だと言われる道は、とても人間で通れるほどしの道ではないということに行き詰まった時に、ビリグイの青年の教師の方ではないですけれども、もうとにかく自殺をするより外にないというところまであるのが、今までのかつての宗教だったです。それを合楽では、もう本当にもう本当に簡単にです。この道を行けば絶対だ。しかも、それを本気で信心させて貰おうという気になりゃ誰でも行じられるんだと。しかも有り難くなるんだ、楽しくなるんだ、いや愉快にすらなれるんだ。と説いておるのが合楽理念です。
 だから、この合楽理念さえマスターして、これを行じてさえ行けば、もう絶対の道が開け、これは死後の生活の上にも光りが、いわゆる光明世界に住むことが出来るんだというそういうものが頂けた時に生まれてくるところの、いわばフレッシュな、いうなら心、いうならさらな心、しかも生々と喜びに満ちた心が頂けるのです。おかげを追い求める心から生まれません。頂いた時には有り難い、頂けなかったらもうグラリするといったようなことではなくて、信心をしておっても、いうならば合楽理念を、いわばモットーとした生き方、そして百姓はもう合楽理念をもってする外はない、商売はもう合楽理念をもってする外はない、と言えれるほどしのものを私どもが体得した時に初めて、いわば大きな明るい円満な心が頂ける。いよいよいやが上にもその上に光りは注がれる。注がれれば、その反射的にその光りをまた放つことができる。自他共に助かって行けれる、自他共に明るくなって行けれる、そういう道を極めた時、それを極めようとして極められなかったのが過去数千年にわたってあった宗教なのであります。
 私は先日、なんか英語のようなことで頂いた。それがどういう意味か分からんから、神様に御神意頂いたら、世界に又とない人、こんな人はもういないという意味らしいんです。あれは何と言ったかね。ワイズマンということを頂いたんです。だから、ワイズマンということが、どういうことかと言うと、簡単に言うと、そんなことじゃないけれども、深い意味は世界に又とない人。しかも、それはいつもおる人じゃないというほどしのことのように頂くんです。
 そしたら、昨日研修の時ですもん、若先生が発表しとりました中に、今アメリカでそれこそ評判になっておる予言者が、若い予言者があるそうです。その予言者が言っておることがですね、「本当の救世主は東洋から出る」と言っておるそうです。私は、その時何か心にビリビリッとするものを感じたです。なら東洋にです、もうそれこそ今、朝鮮にも朝鮮人の人で何とか集団結婚なんかする不思議な宗教が出来てきた。日本にもそれこそ雨後の竹の子のように戦後様々な宗教が出来て、それこそ沢山な信者を擁しておるという事実は沢山ありますよ。けれども、その教えを頂いてみるとです。なら世界中のどこの氏子にでも合点がいって見易う助かって行けれる。しかも、これが絶対だというような説き方をしておる宗教家は一人もいないということです。入っていけば、それこそ自殺でもせなければならないように難しいんです。そういう意味で、だから今、合楽で言われとる「合楽理念が、もし世界中に風びするような時代が出来た時、初めて世界の助かりということが言えるだろうと思います。」ということを、その若先生が言っているんです。いうならばです、金光教の信心が非常に普遍性に富んでおるということを、もうギリギリなるほど普遍性に富んでおる、どこの誰にでも、しかも抵抗なしに。
 私は、昨日研修の時に話したことでしたけれども、どういう国の人にでも、どういう主義の何々主義ということがありましょう。どういう主義の人にでも合楽理念ならば、いうなら噛んで含めるように言うことも簡単だし、同時そんなら分からん筈はないという話を昨日さして頂いたことでした。だから、そういう普遍性に富んでいる教えがないということなんです。そりゃ助かるばってん、そげな難しかことは出来んといったようなものばっかりなんですね。因縁とか罪とかというものを担ぎ出して来たらですね、もうとても助かりようのない。そりゃ現在、東洋にも沢山そういうのもありますけれども、一番素晴らしい、いうならば助かり方、しかも皆その助かりというものは誰でもが求めておるものなんです。その求めておる人に、こういう助かりの道があるんだ。合楽理念は、かく説くんだということをです、もし徹底して分からせることになったら、これは南米だけのことではない。もう海外布教は合楽理念をもってする外はないといわれるようにです。世界総氏子の助かりは、もう合楽理念をもってする外はないというほどしの何かそういうものをね、昨日は特に感じました。
 ですから皆さんがこうやって親しく御神縁を頂いて、日々こうやってお話を聞いて下さる皆さんがです。本当に合楽理念をいよいよ自分のものにしてです。いうならば、いよいよ丸い円満な心というか、いわゆるお先が真っ暗ではなくて、いよいよこれさえ行じていけば絶対だ、間違いない。あの世に行っても不自由せんで済むほどしの内容のあるものが合楽理念だということが、体験の上でそれを積み重ねていったならばです。いやが上にも明るい心、朗らかな心、有り難い心が頂けてくるのです。もうそういう心には、いやが上にもおかげが頂けるというのですからね。本気で合楽理念を、いわば体得して生活の上にです。もう家庭生活は合楽理念をもってする外はないですねと、家族中の者が話し合えるようなところまで、それを進めていかなければならない、高めていかなければならないということです。これは細田さんだけの専売特許じゃない。けれども、このおかげを受けるということがどこにその秘密があるかと。結局、主人が見て家内、家内が見て主人の心というものがです。今までかってこういう家内を見たことがないほどしに、いうならば和らいだ、いうならば豊かな、ニコニコとしたその心の状態に。現在、いうなら昨日もそれこそ泣きながら、お礼を申し上げて下さいというようなおかげが、ずーっと続いておるということなんです。
 だから、やっぱり本心の玉を研くのが信心であり、日々の改まりが第一。改まる、そしてそれを研く。もうビラビラ光るようにもなる。いうならば、天地金乃神様の光りが注ぐのですから、それこそ昼を欺くような光りにもなる。自体、人間自体には光がない。けれども心を円満にする、丸くするということは人間自体でないと出来ない。その心におかげがある。それが天地書附だと思うのです。今日は荒れ地荒れ屋敷ということを、私どもの家庭の中に自分の心の中に荒れ地荒れ屋敷になってはいないか。これでは、どんなに有り難いみ教えを頂いても、芽を切ることも、花を咲かせることも、実が稔ることもないということでございます。
どうぞ。